飯田屋の歴史
大正元年こと1912年に飯田屋は東京都台東区の今の地「東京浅草」に創業しました。
初代、松次郎は職人気質の気風の良い人で、人望に厚く、優しい人だったと聞いています。
当初は料理道具ではなく、障子や襖、ガラス扉を扱う「建具業」をしておりました。
かっぱ橋道具街の周辺にはいくつも建具の会社がありました。
まだ交通網が発達していなかった当時、近くに流れる隅田川は天然にできた最高の交通網でした。
大正12年、関東大震災が起こります。
関東全域に甚大な被害を及ぼしました。
飯田屋も例外ではなく、震災の影響で店舗は焼失してしまい再建への道を辿ります。
同じく震災を経て移転を余儀なくされた菓子問屋、菓子製造業者が西浅草3丁目(旧浅草柴崎町)に移転。
それに伴い、菓子道具店も増えていきます。
飯田屋も建具だけでなく菓子職人向けに、料理に使う道具を取り扱うようになっていきます。
駄菓子屋街となった西浅草3丁目は一時大いに栄えますが、零細な製造版売店も多く、昭和になると大手菓子メーカーの販売網やキャラメルといった洋菓子の大流行により西浅草3丁目の菓子業は衰退していきます。
飯田屋もやっとの想いで震災から再建を果たし、復興していきます。
そんな中、昭和14年第二次世界大戦により2回目の店舗焼失を経験します。
当初は建具を扱っていましたが料理道具と、当時は新しいホーロー用品を販売しました。
初代の松次郎が亡くなり、ヨシが2代目として社長に就任します。
甥で後々の3代目社長となる藤井毅も入社しヨシを支えました。
昭和30年代、ホーロー製バットを買いに来られた精肉店店主の方から「自分たちが使う精肉用器具がどこにも売ってなくて困っている」という声を聞き、「この方々のために何かできないだろうか」と毅が一念発起。
オリジナルで様々な精肉用器具を製作し、料理道具と共に販売しました。
「肉屋の飯田」として全国で唯一の店となり、高度成長の時代に乗り大変繁盛しました。
メラミン食器もかっぱ橋道具街で最初に扱ったと聞いています。その頃から、回転寿司店のお客様も増えました。
メニュー用品も取り揃え、当社の手書きメニューのデザイナー曽根がお客様のご要望に合わせて手書きし「美味しい文字」としてNHKにも出演しました。
社長となった毅が社員におもてなしの心を学んでほしいと願い、妻・博子が茶道教授だったこともあり、全社員で茶道を学びました。
当時から珍しい日曜・祝日も開いている店でした。
「日曜日しか来ることができないお客様がいるからね」そんな言葉が当たり前のように話されている店でした。
平成7年、4代目社長となる藤井博子が社長就任。
平成14年に5代目社長として飯田敬子がおもてなしの心を深めていきます。
平成29年に6代目社長として飯田結太が就任し「料理道具の聖地」と呼ばれるようになった飯田屋を
飯田屋が誇る生き字引こと「加藤勝久」
ザ・ミスター飯田屋こと「藪本達也」
行列ができる店員こと「杉山研二」
飯田屋の太陽「田代容子」
飯田屋のかあちゃんこと「長沼聡美」と
飯田屋の背骨こと「江口京子」
スーパールーキーこと「鈴木克明」と「渡部純」とともに、経営していきます。
飯田屋は大正元年に生まれ、昭和元年と平成元年を経て、新たに令和元年に生き続けます。
料理を愛するすべての方々にお応えできますように、プロの知識を日々、向上させ真心の接客に努めてまいります。